天職って。与えられるものじゃなく。。

よく人から、塾の先生は鍜冶の天職かもしれないね。
みたいなことを言われます。
「ありがとう」とは返します。多分、日本に生きる人の中でそういわれる人は
数多くない。理屈くさく言えばまさに有り難き存在なのだと思うのです。
でも、僕は生まれついてこの仕事につくことが決まっていたわけでも
天に定められていたわけでもありません。
自分が好きな仕事なので、その技術を磨いてきたし、
生徒たちとも付き合ってきたのです。
好きな仕事だからこそ天職(この呼び方がふさわしいかわかりませんが)
にできたという言い方が正しいのではないかと思います。
それにそれなりの原風景(私の原風景をご参照ください)があるので。。。
ですから天職というのは自分で見つけなければいけないものであって、
誰かから与えられるものでも、誰かが与えてくれるものでもないのです。
確かに「現実なんて、そんなに甘いものじゃないんだ」という考えはあります。
食べるために仕事はするのだよ。まさにその通りなのですが、
だからといって、天職をを見つける作業・努力を怠ることや
よりよい自分の仕事との付き合い方を見つける作業をすることは
全く別だと思うのです。
好きなこれでどうやって食べて行けるかを考えることは全く別のように思うのです。
自分の勉強をどのように糧につなげていくかを、本当にそれが好きなことなのか。
常に見つめながら小・中・高・大と過ごすことは決して無駄ではありません。
うちの塾はそのお手伝いをする装置だと思っています。
先日、テレビを見ていたら、ほんとに日本は解雇しにくいのかどうか
ということをやっていました。
その中で、会社からもういらないといわれて、リストラ部屋とかプロダクトなんたらに
チャレンジしているケースをしていました。
やめられない理由として、妻子の生活を守らなければ、というのがあるらしいのですが、
もしも、そのような発想で会社に在籍していたのならば、いらんこになってしまうのは
仕方ないかもしれないな。と思います。
会社組織は払っている給与の3倍の収益を上げる人間にしか給与は払えません。
福利厚生だの交通費だのそれを支える販管費だとかを考えると
そうなるのだそうです。
また、それ以上に功績があったとしても、害悪を垂れ流す。
あるいは、組織全体に対してマイナスのはたらきをするならば、
売り上げのマイナスにつながる。それもだめかも。
その人たちというのは、「その会社で仕事がしたい」のではなく、
「その会社に居たい」のではないかな。それはあきらかに天職の発見に
失敗していると思うのですね。
確かに生活は大切。でもそれはその人のであって、ある意味会社には全く関係ない。
その人を残しておくことで会社にとって損失しか生まないのであれば、
利益を作り出すのが会社の使命なのだから。。。
当然採用した責任も会社にはあるとは思いますが。
これならば勝負できるという得意分野が社内でしか通用しないもの
だから外に出ることも厳しい。いわば、汎用性のある能力を身につけることが
出来ていなかったのかもしれない。
それが最適な選択だと考えたことを責めることはできないし、
確実にその方がうまく生きることのできた時代もあったのですから。
今だってそういう側面はいくらでもある。
でも外に出た方が僕は天職を見つけられるんじゃないかなと思います。
個人的な感想だけで申し訳ありませんが。
だって、何度だってチャレンジはできるから。
僕は70オーバーまで現役でいるつもりですよ。
そんなこんなで、うちの塾がお手伝いするべきは2つ。
子供たちに
一つは天職を見つけるべく努力できる子供にしていくことと。
汎用性のある誰にも負けない何かを身につけるお手伝いをすること
かなと思います。
札幌市中央区 小中高学習塾 PAT共育ゼミナール

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