今日は進路の相談。どちらの高校がいいか?それはアドヴァイスはできるけど。誰にもわからない。
しっかり悩もう!
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合格発表!
合格発表前日!!
あすは北海道公立高校の
合格発表の日です。
2倍を超える高校は北海道の場合少なく、なかには1.1倍という
倍率の高校もあるので、比較的平穏な状況に
あると言えます。
しかし、それは数値としてのデータ。生身の人間として
悲劇は少なからず起こりうる。
1倍は合格し、30人は不合格になる。
純粋な確率論ならば、合格になるほうが普通なのですが、
相対評価の中では。。。
受験生はみんな努力しているはずなので、全員を合格にして
上げたいのは人情ですが、競争の中で勝負の中で、人間としての
強みを身につけるのもまた真理ですね。
全体の入試状況から考えると、札幌西は言われたほど倍率が
上がっていませんね。多分、昨年同様の点数でいけるかな。
あと、
最近、札幌南と札幌北の間は差がなくなってきている気がします。
今年の現役生におけるセンターの学校内平均点は札幌北>札幌南
だったそうですね。
教員のみなさんも大喜びだったとか。
僕はどちらかというと偏差値やレベルで志望校、受験校を選択させません。
足りないなら、うーんと努力すればいい。
むいていない学校で過ごす3年間と
楽しい高校で過ごす3年間。
自分の行きたい学校で過ごす3年間。
全ては生徒さんの選択。自分の将来の夢に一番近い経路を選択できる
学校を選択し、受験するべきだと思っています。
理想論でしかありませんが、
大切な3年間を後悔をさせたくはない。
だからこその進路指導であり、受験指導です。
後々まであの学校受けとけばよかったなとか。悲しすぎるでしょ。
だから、受けたい学校がある以上、最大限の努力を求めるし、
僕も努力します。
今晩は眠れるかな。
少なくとも僕は厳しいかも。
評価ということ
僕も会社員なので、上司からの評価からは免れません。
会社からの評価ということでもあります。しかし、僕はあまり気にしていません。あまり出世に興味がない。ということもありますが、一生現場の人間でいたいので。
と同時に評価というものはする人が変われば、評価自体も変わります。
評価は非常に多くの場合、相対的な部分、つまり、数値的に比較できる内容と、絶対的、つまり、プロセスなど数値に直接的に反映しない部分に別れます。このプロセスの部分については主観が入るので、人によって同じ人物を見ても評価は変わってしまう。ですから、評価の高い、低いはプロセスを見てもらう限り仕方ないのです。無理にゴマスリする力があるなら、その力を生徒の指導に振り分けたいとおもうのです。でも、会社に不満を述べる方は多いです。不満があるならやめれば、あるいは評価を高めればいいだけで、2個の選択です。
一方、相対評価の極みにあるのが入試。特に中学受験は一回の入試で全てが決します。そのことを批判するつもりはいっさいないですし、逆にそんな経験も子供にとっては成長のため必要かな。つぶれてしまっては何にもならないですが。
成果や実績は本番で冷たく評価されます。だからこそ、僕はプロセスを評価し、そのプロセスを成果へと結びつけてあげなくていけません。
中学高校と伸び続けて行くためには、プロセスの重要性とそれでモチベーションを維持させる、高めていく経験が必要ではないかと考えます。同じような成績層の中では成果が出にくくなりますから。相対評価のみの中だと一気に低空飛行と言うケースもありますので。
いよいよ、中学生は明日卒業式。明後日、公立高校の合格発表です。プロセスにたいする評価は上々。後は成果に結びついたか?
今から、毎年のことですが、自分のことのようにどきどきしています。
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漢字ができません。
感覚的なものに過ぎないのですが、最近漢字のできん子が増えている気がします。
それで、練習させるのですが、
ひどい場合、仕事を5回書けというとイと5回書き、隣に士と5回書こうとします。
結局、仕事という意味のまとまりであることを十分認識させられていないのです。
ただ、漢字が十分に書けない子は多かれ少なかれこの傾向があるように感じます。ひらがな、カタカナの難しいバージョン。つまり、表音文字としてとらえる傾向が。
だから、お家で練習するときには、まず書くのではなく、意味を教え考えさせてから書かせるような習慣が必要だと思います。
練習の質が同じ時間における点数の差を当たり前のことながら生み出します。
この漢字練習の習慣は中学で英単語の練習に繋がります。英単語のよく書けない方も最近増えていますね。
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10日余り
国語の指導の中で
多分、国語の指導者としての僕の
力量はあまり高くありません。
だから、余計に思うことなのですが、
国語の成績は個別指導が効率的にあげられるかな。
というのも、国語の点数が取れない子のできない要因のバリエーションの方が算数が出来ない子より豊富に思えるのです。
国語も算数。数学も果ては英語理科社会と中途半端にいろいろな科目を教えているせいかもしれませんが、
見ていると文章をとらえられない原因が、基本的な語彙力の不足だけではなく、文を一つのまとまりとしてとらえられない。
文字の集合体としてとらえてしまっているケースが散見されます。
結構高学年になってもそれをしている。
つまり、例えば今日という単語があれば、「今」があるよ、「日」があるよ。としてしまい、今日というまとまった単語としてみていない。
これは、単語の意味をしらないのとは別の次元の話。
国語としての根本に関わることのような。それはちょっとでもいいので音読させると明らかになりますが。
そのレベルだと、国語の文が何であるかというところから説明が必要です。
設問の読み取りにしても設問の意味がわからないのか、答え方がわからないのか。出題者の意図がわからないのか。わからないのレベルが個人毎にバラバラ。
一定レベルに到達している子の集団ならば、展開もまた違うのでしょうが、国語を集団で担当してなおかつ全員の成績を向上させ続けている方はほんとにすごいな。と思います。
僕は国語について子供らの課題が100人いたら100通りなので、個別に対応していかないと成績を上げられない。
もっと修行が必要だと思っています。
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不思議なこと。国語編
教育評論家の方の本などを読むと
国語の力を伸ばすために、あるいは読解力をつけるために
読書をさせましょうとか
そのために読み聞かせをしましょう。
などと書いてあります。
でも、本自体嫌いな子はどうしたらいいのでしょう?
読み聞かせをじっと聞いていない子は?
気がついた時期が小5ならば、すべて手遅れなのでしょうか?
そこに向けてはなんの解答も用意されていません。
漫画でもいいとか。好きな分野の本をとか書かれているけれど
親にとって、何が好きな分野で、それについての良書とは?
よく売れている本だと聞き買ってみるものの何も使えない。
親の取るべき方法とかいいつつ、
一般論でしかなくて、
なるほどなと思いつつも、
実際に実行できなかったりとか。
何か僕にとってはすごく違和感があるのです。
以前から気になっていて考えてみていたのですが、
子供の考えや思いなど子供の立場が欠落しているように
思うのです。
確かに親が子供を導かなくてはいけない部分というのは
多いと思うのですが。相手がある、その考えがある。行動原理がある。
その尊重なくして、これをしたらいいよというアドヴァイスを聞いても
親の単なる自己満足なんじゃないのと思ってしまうのです。
一人一人を個別化してみていかないと、
100人の子供には100通りの行動が考えがあるはず。
子育てに一般論なんて通用しないのではないかと、
だから、毎日の授業なり会話なりに刺激があり、子供たちを
自分が育てている実感とともに自分が子供に成長させられて
いる実感があるのではないかと思うのです。
次、中3になる娘は読み聞かせを一切聞かない子でした。
読書量もさしたるものではないと思います。
現在、5科目の中では国語が一番良く出来ている。
素直に読み聞かせを聞いていた息子は、現在読むのは漫画のみ
国語の成績は0点をとったりします。
レアなケースかもしれませんが、実例があるのです。
親としてはあまりなにもしていませんね。
これまで教えてきた子でもものすごい読書量なのに
国語があまり出来ないという子はいくらでもいます。
国語の成績がいい子は読書量が多いかもしれない。
でも読書が好きな子の全てが国語ができるわけではない。
読書がキーならば全員国語の成績がよくてもいいはずですよね。
私は不思議でたまらない。
ここは、宿題に僕自身の宿題にしておきたいと思います。
ワクワク感
僕はギャンブルが好きではなく、特に競馬競輪は一切しません。麻雀は少し。
とりあえず、自分の選択を馬や他人の頑張りにゆだねるのはあまり気持ちのいいものではない。
ということです。
でも、ワクワク感が嫌いなわけではない。ワクワク感がどこに起因するかを考えると不確定要素に起因している気がします。
多分、アメリカンフットボールのパス攻撃が受けるのも、不確定要素がランよりも大きくなるからかな。
マニングやブリーズ、ブレイディがすごいのは特定の相手とのショートパスに不確定要素がほとんど入らないとこ。
全く持って、ワクワク感が乏しい。でも勝てるということはそういうことなのかなあと思います。
逆にペインターなんかは、ショートパスでもワクワク。
ティーボーなんか何してもワクワク。というより、二人はWAKWAKよりもドキドキに近い?
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犬を飼おうかな。
最近、犬を飼おうかと思っています。
うさぎでもいいのですが。
理由は突き詰めてしまえば、死んでしまうから、
ネガティブ&逆説的なように聞こえますが、
本音です。
実家の母などは動物は死んでしまうので嫌だ。
といって、飼いません。
その喪失感に耐えられないと言います。
でも、うちの子供らにはその経験が必要に思います。
ある朝、いきなり昨日までぬくもりがあった自分に親しいものが
冷たくなっている。反応しない。
喪失感、悲しみを経験しておかないといけない気がします。
その経験が何をもたらすかは未知数なのですが、
その経験によっていのちの大切さを他の人に対する優しさを
学び取ることができないかなと期待しています。
先日、ベネッセさんの調査で親御さんの調査対象の約40%の方が
子供の独り立ちに不安を感じているという結果が出たそうです。
僕もその一人ではあります。
何をもって指針とすべきか、唯一絶対の価値が揺らいでいる。
これをすれば大丈夫ということがなくなり、親自身が拠、自信を
持てないということの裏返しなのかなと考えたりします。
勉強さえしていれば、大丈夫じゃないことは、最近のビジネス雑誌
なんかを見ても明らかで、求められている力が偏差値では計りきれない
モノになってきているように感じます。
むしろもっと人間としての基本に根ざした部分。
自主性や計画性、気遣い、行動力。
これらが小さい頃から身についていると偏差値もあがるのは自明です。
今そうでなくても将来的には、時期がくれば。しかし、
偏差値的に高い子の全てがこれらを身につけている訳ではない。
とすれば、親という教育者はいかにして生きる力により近い部分を
伸ばしてやれるかだと思うのです。
と同時に、いろんな経験を積ませる必要があるかなと思います。
喪失感を乗り越えられる。悲しみを乗り越えて次に向かっていく
それには当然助言も必要ですが、たくましさを身につけさせたいのです。
無論、ペットの死を願っているわけではありません。
愛情を注げる対象を作ることが子供にとって幸せなことに思うし、
人から愛情を注いでもらえることが幸せな動物たちもいると
思います。
結果、視野の広がりを期待できるかもしれません。
相変わらず、グタグタですみません。