評価ということ

僕も会社員なので、上司からの評価からは免れません。
会社からの評価ということでもあります。しかし、僕はあまり気にしていません。あまり出世に興味がない。ということもありますが、一生現場の人間でいたいので。
と同時に評価というものはする人が変われば、評価自体も変わります。
評価は非常に多くの場合、相対的な部分、つまり、数値的に比較できる内容と、絶対的、つまり、プロセスなど数値に直接的に反映しない部分に別れます。このプロセスの部分については主観が入るので、人によって同じ人物を見ても評価は変わってしまう。ですから、評価の高い、低いはプロセスを見てもらう限り仕方ないのです。無理にゴマスリする力があるなら、その力を生徒の指導に振り分けたいとおもうのです。でも、会社に不満を述べる方は多いです。不満があるならやめれば、あるいは評価を高めればいいだけで、2個の選択です。
一方、相対評価の極みにあるのが入試。特に中学受験は一回の入試で全てが決します。そのことを批判するつもりはいっさいないですし、逆にそんな経験も子供にとっては成長のため必要かな。つぶれてしまっては何にもならないですが。
成果や実績は本番で冷たく評価されます。だからこそ、僕はプロセスを評価し、そのプロセスを成果へと結びつけてあげなくていけません。
中学高校と伸び続けて行くためには、プロセスの重要性とそれでモチベーションを維持させる、高めていく経験が必要ではないかと考えます。同じような成績層の中では成果が出にくくなりますから。相対評価のみの中だと一気に低空飛行と言うケースもありますので。
いよいよ、中学生は明日卒業式。明後日、公立高校の合格発表です。プロセスにたいする評価は上々。後は成果に結びついたか?
今から、毎年のことですが、自分のことのようにどきどきしています。
Android携帯からの投稿

不思議なこと。国語編

教育評論家の方の本などを読むと
国語の力を伸ばすために、あるいは読解力をつけるために
読書をさせましょうとか
そのために読み聞かせをしましょう。
などと書いてあります。

でも、本自体嫌いな子はどうしたらいいのでしょう?
読み聞かせをじっと聞いていない子は?
気がついた時期が小5ならば、すべて手遅れなのでしょうか?
そこに向けてはなんの解答も用意されていません。

漫画でもいいとか。好きな分野の本をとか書かれているけれど
親にとって、何が好きな分野で、それについての良書とは?
よく売れている本だと聞き買ってみるものの何も使えない。
親の取るべき方法とかいいつつ、
一般論でしかなくて、
なるほどなと思いつつも、
実際に実行できなかったりとか。

何か僕にとってはすごく違和感があるのです。
以前から気になっていて考えてみていたのですが、
子供の考えや思いなど子供の立場が欠落しているように
思うのです。

確かに親が子供を導かなくてはいけない部分というのは
多いと思うのですが。相手がある、その考えがある。行動原理がある。
その尊重なくして、これをしたらいいよというアドヴァイスを聞いても
親の単なる自己満足なんじゃないのと思ってしまうのです。

一人一人を個別化してみていかないと、
100人の子供には100通りの行動が考えがあるはず。
子育てに一般論なんて通用しないのではないかと、
だから、毎日の授業なり会話なりに刺激があり、子供たちを
自分が育てている実感とともに自分が子供に成長させられて
いる実感があるのではないかと思うのです。

次、中3になる娘は読み聞かせを一切聞かない子でした。
読書量もさしたるものではないと思います。
現在、5科目の中では国語が一番良く出来ている。
素直に読み聞かせを聞いていた息子は、現在読むのは漫画のみ
国語の成績は0点をとったりします。

レアなケースかもしれませんが、実例があるのです。
親としてはあまりなにもしていませんね。
これまで教えてきた子でもものすごい読書量なのに
国語があまり出来ないという子はいくらでもいます。

国語の成績がいい子は読書量が多いかもしれない。
でも読書が好きな子の全てが国語ができるわけではない。
読書がキーならば全員国語の成績がよくてもいいはずですよね。

私は不思議でたまらない。
ここは、宿題に僕自身の宿題にしておきたいと思います。

犬を飼おうかな。

最近、犬を飼おうかと思っています。
うさぎでもいいのですが。
理由は突き詰めてしまえば、死んでしまうから、
ネガティブ&逆説的なように聞こえますが、
本音です。

実家の母などは動物は死んでしまうので嫌だ。
といって、飼いません。
その喪失感に耐えられないと言います。

でも、うちの子供らにはその経験が必要に思います。
ある朝、いきなり昨日までぬくもりがあった自分に親しいものが
冷たくなっている。反応しない。
喪失感、悲しみを経験しておかないといけない気がします。
その経験が何をもたらすかは未知数なのですが、
その経験によっていのちの大切さを他の人に対する優しさを
学び取ることができないかなと期待しています。

先日、ベネッセさんの調査で親御さんの調査対象の約40%の方が
子供の独り立ちに不安を感じているという結果が出たそうです。
僕もその一人ではあります。

何をもって指針とすべきか、唯一絶対の価値が揺らいでいる。
これをすれば大丈夫ということがなくなり、親自身が拠、自信を
持てないということの裏返しなのかなと考えたりします。

勉強さえしていれば、大丈夫じゃないことは、最近のビジネス雑誌
なんかを見ても明らかで、求められている力が偏差値では計りきれない
モノになってきているように感じます。
むしろもっと人間としての基本に根ざした部分。
自主性や計画性、気遣い、行動力。
これらが小さい頃から身についていると偏差値もあがるのは自明です。
今そうでなくても将来的には、時期がくれば。しかし、
偏差値的に高い子の全てがこれらを身につけている訳ではない。

とすれば、親という教育者はいかにして生きる力により近い部分を
伸ばしてやれるかだと思うのです。

と同時に、いろんな経験を積ませる必要があるかなと思います。
喪失感を乗り越えられる。悲しみを乗り越えて次に向かっていく
それには当然助言も必要ですが、たくましさを身につけさせたいのです。

無論、ペットの死を願っているわけではありません。
愛情を注げる対象を作ることが子供にとって幸せなことに思うし、
人から愛情を注いでもらえることが幸せな動物たちもいると
思います。
結果、視野の広がりを期待できるかもしれません。

相変わらず、グタグタですみません。

中3生へ②

いずれ来る日に備えて
今日感じたことを書いてみます
未来への手紙です。
今日は本当にご苦労さんでした。
試験の出来はどうでしたか。
点数が思ったほど取れなかったことで不安に
なっている人いるでしょう。けれど、今はそれを考えても
仕方ありません。
いろいろな情報に振り回されて一喜一憂しても、君たちの
過去の行動に関係することであって、冷たいようですが
いまさらそれを変えることなんてできない。
そもそもその情報自体、何の根拠もない推測かもしれないのです。
現実的に考えて、厳しい現実が突きつけられる可能性も
大いにあります。
もし万が一厳しい現実が突きつけられたとしても、それは
自らの選択の結果だし、その現実から逃げてはいけないと僕は思います。
はじめにいうと合格が光に満ち溢れた未来を約束するものではないし、
不合格が暗黒の世界の始まりではありません。
不合格より合格の方がいいに決まっているのだけれど、
それより、入試という枠の中で成長できないことのほうが、
不幸なのです。
だから合格したとしても人間として成長できていなければ、
個人としての受験は100%成功とは言えない。
逆に、勝利よりも敗北から学び取るものが多い者こそが、
次のステージでは勝利手中にできるかもしれない。
合格・不合格の差はスタートラインの差でしかありません。
力いっぱいしてきての、悔いのない受験をしてきての合格あるいは
不合格ならば、それはどちらの場合であっても胸を張るべきなのです。
未だみなさんの人生は始まったばかりです。
高校入試の合格不合格で左右されるほどチンケなもの
ではありません。
合格は人生で経験したことがないほどの無常の喜びかもしれない
不合格は人生で経験したことのない不幸かもしれない。
でも、そんな喜びが小さいものと思えるほどの大きな喜びが、
不合格以上の苦しみが人生にはあるはず。
君たちの喜びも不幸もまだ始まったばかり
もっともっと辛いことがあるよ。
もっともっと嬉しいことがきっとある。
辛いことを乗り越えられる強さ。喜びを引き出す努力それを
学ぶための受験だったのです。
決して、結果のみ(それが良いものであれ、悪いものであれ)
に縛られるな。
人の生き方にひとつの近道も回り道もないよ。
そして、迷っても、僕は君たちにつきあうよ。

勉強する?

娘たちのなかで、一番学校の勉強を頑張る必要があるのは、3番目。
他にこれといって、将来の志望がない。
すると、一番手っ取り早いのは学校の勉強を頑張ることだと思うのです。
なぜかといいますと、僕自身、学校の勉強というのはよりよく生きるための一つの手段方法だと考えていて、その方法は全人類の数ほどあると思ってます。
その才能なり、志望なりが十分ではないとき、学校の勉強というのは道を切り開くために役にたつことが多いのです。学校の勉強だけできても幸せになれるわけではない。
だからといって、勉強にしなくていいということではありません。
勉強は人生をより豊かにするための手段のうちの一つ。しかも、一番身近ですので、するべきなのです。
だから、いい高校レベルの高い高校に入ろうねというのはあまりに短絡的で、そこでやりたいことがなければ、何にもならない。入ることが直接個人の幸福にはつながらんと思うのです。
ただ、自分の将来なりたい姿に最短距離で進める場所はあるわけで、そこは迷わず狙うべきです。
いよいよ明日本命の受験という人も多いかな。みんな気合い入れていきましょう。
Android携帯からの投稿

共育って

僕の仕事はよく教育産業とか教育サービス業とか言われるのですが、
この「教育」という言葉があまり好きではなくて、
やって、教えて育てられるほど自分も立派ではないし。
むしろ、生徒さんから僕も学び育てられている部分も多いと思うのです。
だから、共に育って行きましょうよ。
お父さん・お母さん・保護者の方と一緒に育てていきましょうよ。
という意味で「共育」という言葉をよく使います。
人生のちょっとだけ先輩として、知っていることあるから、
その知識をシェアしましょう。
その代わり、僕にもいろいろな発見や経験をさせてください。
というのがスタンスです。
僕らの業界では、このような教え方が正しい。とか、教え方について
延々と議論が続いたりします。
その中にひとり一人の生徒の幸せという観点が欠落していることがおおいように思えます。
そう教えたら、先生としては満足感が得られる。
でも、生徒はそうじゃないかも。
自己否定ぽく聞こえるけど、教えないのが一番いい。
自分で勝手に好きなことを勉強して、自分のなりたいものになるのが
理想形だと思うのです。
むしろ、そこに到達させてあげるために、僕らは知恵を絞るべきなんじゃ
ないかなーと思ったりします。
ある意味では頼りないと思うのですが、教える・育つ・育てるということは
その対象があって初めて成立すると思うのです。
だから、その対象を認めるところからしか始まりません。
先生は偉くない。生徒がいるから先生でいられる。
教えるのが好き。生徒さんがいてくれるからこそ、教えられる。
いま、生徒の皆さんが居てくれていることに、
僕はまず素直に感謝したいです。