今年の入試結果高校。

こちらが気になっているお母さんも
あるかと思いますので、本当はあまりかく気はなかったのですが
ご報告まで。

不合格は出ております。
とても残念ですが。。。

合格者としては
市内トップクラスの札幌東西南北は
道コンのランク順に

札幌南1名
札幌北1名
札幌東1名です。

準トップ校の
札幌開成1名
札幌啓成1名 となります。

私立が第一志望の生徒さんもおられます。中3生は在籍7名でした。

私立の合格者を含めると14名合格。
このうち道コンSS60以上の高校への合格者は13名
実に合格者の92.7%なのですね。

第一志望(聞いている範囲での)への合格は6名。

ちょっと気になってサイトを調べてみたところ。。。
他塾とこの点で競争しないとはいっても気になるじゃないですか。

一部上場の塾さんは未発表。
北海道最大の生徒数の塾さんは
わかる範囲でいうと975名中400名が道コンSS60以上。
札幌市内分ですね。率は41.0%

もう一つの大手さんは、実績がいまだに2011年度の
ものでしたが39.5%。
(計算方法が違うかもしれないかもです。)

どれだけ、うちの子らがこの間頑張ってきたかがわかります。
当然、人数定員制ですし、数は出るわけがない。
でも、質としては相当頑張ってくれたのかなーと思います。

僕が一人で教えるというのは、専門性で不安のある方も
あるとは思うのですが、
全教科でそれなりに修行積んでますし、頼りない非常勤や
経験の浅い社員に担当させるよりはずっと有機的に授業を連動させて
いくことが可能なので。
どの教科に時間をかけるべきか、もすべて客観的なものだけでなく
肌で感じられるので合理的だと思っています。
ちなみに演習主体ではなくすべてホワイトボードを使って
講義形式でしていますよ。

広告みたいになってしまった。
これはしないことを信条にしているのに。。。

いよいよ明後日発表ー北海道公立高校(中3向け)

月曜日には公立高の発表です。

中3は昨日卒業式で、、、
いまは本当に宙ぶらりんですね。

うちにも中3の娘がいるので結果は気になります。
当然中3生全員の結果は気になるのですが、
今はどちらかというと元NFLインディアナポリスコルツのDE
ドワイト・フリーニーがどのチームと契約するのかの方が私の
人生にとっての重大関心事です。
どこに行ってもまだ活躍できると思うのですよ。
希望としてはニューヨークジャイアンツかな。出身も確かあちらの方だし。

とかなりいい加減な感じ&ひどい父親ですが、
今、結果は気にしても仕方ない。

確かにドキドキするよね、不安にもなるだろう。

ただ、明後日出てきた結果によって君らの人生が成功するわけでも
だめになるわけでもない。

その結果は君たちに何を約束するものでもないのだということを
初めに理解すべきだと思います。

入試はゴールじゃないし、ゴールにしちゃいけない。
先生としての僕の仕事は終わってもいないし、
新たに出てきた結果によって本当に始まるのかもしれない。

あさって、10時に紙が張り出されるまでだれにも何もわからないのです。

もしもそこに何かがあるとして、
今までの努力が報われてよかったねか。
報われなくて残念だったねか。
しかない。

どちらにしても君たちは歩いていく。
道は変わるかもしれないけれど、
歩き始めなければならない。

今いる場所がゴールではないのだから。

去年も書いたのだが、人生のゴールは自分自身で決めるものなのだ。

まわりやましてや他人が決めるものでは決してない。

この結果を恐れるな。
この結果で変わる未来を恐れるな。
この結果であきらめてしまうことを恐れろ。

何も成し遂げたわけじゃない。
何も傷ついたわけじゃない。 また、新しい道が待ってるだけです。

だから、不合格になっても、合格しても泣くなよ。
涙は思考を停止させるからな。って、むりかもな。。。

内申点の向上(昨日の内容の続き)

結構、テーマはいい加減だったりするのですが。

案外、ご存じない方もおられるので少し昨日の補足的に
書いていきます。

札幌市の中学生の通知表ですが、ほとんどが5段階評価
なのです。
で、これが内申点といわれるものになっていくのですが、
この下にA・B・Cという要素があります。
たとえば知識とか関心・意欲・態度などなどの項目があり
これについてA・B・Cの3段階の評価が与えられているのです。
とここまでは、一般的によく知られているのですが、
実はこのA・B・Cは表に出ないのですが○とか+とかの
隠し要素があります。
A○もAも同様にAとしか表記されません。

だから、Aばかりがついていても4であったりとかが
ありうるわけです。逆にBがあったとしてもほかの要素が
A○ならば、5になる可能性もあるということです。

定期テストの点数という要素はわかりやすいのですが、
最終的にはこちらの要素に平常点。たとえば定期テスト、授業中
よく発言するかなどが組み込まれるといわれています。
点数が上がったのに通知表が上がらないというのは、
平均も上がっている。とか、こちらの要素が上がらないという
ケースも多いのですね。

だから、真の意味で内申を上げようとすると、定期テストの結果に
この細目の部分が必要になるのです。
つまり、関心意欲などでBがついているとしたら、
宿題のできや課題の提出状況を疑ってみる必要があります。
定期テストは短期集中でのつめこみや的確な予測で
何とかなる部分が多いのですが、

こちらの方に関しては日常的な部分を見ていく必要があります。
通知表の結果のみたとえば5がついた、4がついただけでは、
将来的にどこの学校の受験が可能でどれほどの合格可能性が
あるかの予測にしかなりません。

細目内容の検討・分析が内申の向上のためには、必要なのですね。
たとえば、1クラスが20人30人となったときに、
それがきちんとできるかというと。。。
個人状況に沿ったものではなく、一般論しか述べることが出来ないのが
私の能力の限界です。

出来れば対策に関してもその子の性格とかキャラクターとかを
考えてのものにしてあげたいと思うので。。。

ですから、1学年については10名程度。
(「程度」になっているのは、付き合いの長い方のご紹介ならば、断ることが
出来ません。すこし、無理をしてしまいます。)
にさせていただいているのです。

何が真の目的か。

今日から3月ですね。
国公立大の2次試験を終えた受験生から、
出来た、できない。
のお話をちらちら聞きます。

センターの結果から少し厳しい受験を考えている
方などもあるのですが、、、

ご家族に理由を聞くと結構な率で
「プライドが。。。」とか「そのくらいのレベルでないと。。。」
というお話を聞きます。
そのことについての否定は一切しません。
目標があることはいいことだし。チャレンジは常にしてみるべきなのです。
しかし、その大学に行く目的は?
お医者様になりたのであれば、医科大学に行くしかない。
その職業に就くために限定された大学というのがあるから、
努力して自分をそのレベルに成長させるしかないのです。
あるいはどうしてもしたい勉強があり、そこでしかできない。
というならば。。。

だが、その大学に入らなくてもつける職業であれば、どうなのでしょう?
1年間の回り道と大学での1年間の余裕。
浪人したつもりで海外に1年留学とか。その方が目的である
自分の職業とか人生にプラスになるかもしれません。
また、会社に入るにしても。すべての人に等しく60歳とか65歳で
定年は来るわけです。
そこから再就職するにしてもどこの大学かよりもその会社で何をしてきたかの
方が重視されているような気がします。
まあ、私の数少ない経験値なのですべてに当てはまるかはわかりませんが。

多くの人にとって大学とは手段でしかないはずです。
よりよく生きるための。ほんとにその勉強が好きで、それを職業に
してしまう。(収入を得るという意味で)人はいるのは確かですが、
それでも人生を駅伝にたとえれば、第3区とか第4区なのではないでしょうか。
そこで、最高のラップタイムを出し、そのまま優勝ということもあれば、

他の区間で盛り返してということだってあるはずなのです。
レベルの高い、いい大学に入ることが目的ではないはずです。
そこで人生終わりじゃないし。。。

だから、回り道するメリットとデメリットをよく考えたうえでの選択はしてほしい。
そして、よく考えたうえで
君がした選択ならば絶対それは間違っていない。
迷わず進んでください。

とある特定の何人かに寄せた内容だとはわかると思うのですが、
(ま、読んでるか知らんけど)
君たちがしてきた選択で今まで一度も間違えた選択などないのです。
不足してきた努力はあるかも。
ちょっと運が悪かったかも。
でも選択自体に間違いなどない。
だから、後悔や迷いを持っている場合ではなく、
本当に正しい選択だったということを証明しようよ。

がんばれ。

頑張ったのはだれ?

よく広告に絶対成績を上げます。とか
塾で指導した成果でこれだけの実績が出ています。とか

あるのですが、どうも私的には納得のいかない部分が多いのです。
多分、今教えている子の何人かは地域のトップ校に合格するのですが、
でも、それは私ががんばったわけではない。

ああ、手を抜いているというわけではないですよ。
確かに指導もしたし、サポートもした。でも、本気になって、
戦ったのは生徒たちなのだし、賞賛されるべきは、生徒たちであって
塾じゃないのじゃないかなと思うのです。
成績を上げる主体は生徒たちです。
絶対あげるってどれほど先生たちが優秀なのだろうと思うのです。
まあ、気持ち的にってことで。というならば、それはこの仕事に
携わる人すべてが持っているはず。

昔は私も俺が教えたから上がったのだとか傲慢にも考えていたし、
一部は正解だと思う。
しかし、この仕事の中で
主役は常に生徒たちであるわけで、塾の先生はわき役にすぎません。
本人たちにやってもらえなければ、受験さえままならない。
だから、本人たちを頑張らせる方向付けが
一番重要なのではないかと考えます。

そのためには、内容をテストや入試に合わせて絞り込んで、
覚えやすいテクニックを編み出して、とか。

でも、それは生徒にとっても私にとっても最終目標でもなんでもなく、
本人たちが自分で走れるようにするための方向付けの方法でしかない
と思う。
という意味では一番の売りにしたいのはその部分だし、
高校大学に行ってさらに成長することが
なりたい自分になることが目標なのだから。

塾が優れているから、あるいは私が優れているから君たちは
合格するんじゃない。
君たち自身が努力したから、優秀だから合格するんだ。

でも、不合格になったらそれは塾の力が不十分。いろいろな意味で。
不十分だったのだとおもう。
塾の主宰である私がこんなこと言っちゃいけないかもしれないが。

まあ、完全に君らに責任がないわけではないのだけれど、
不合格という点で、これからのどう生きるかに
変更を余儀なくされる点で人生に責任を負うのだから。
それ以上、責められることはないと思うのです。

長女のイジメから学んだこと。

昨日、かなり生意気なことを
書いてしまいましたので、ちょっと自分なりのいじめやらの考えを書きたいと
思います。

まず初めに、イジメはいじめられる子に確実に原因があります。
でも、その原因というのは悪いことというわけではなくて、いわば、差異
とか個性とか言われるものです。

うちの子の場合は泣き方が、泣き声?が面白かったそうです。
だから、泣かしてたらしい。
嫁は怒っていましたが、僕は思わず笑ってしましました。
当然、嫁の手前、心の中だけでですけど。
似たようなことを今もしとんねんな餓鬼どもはー。って
まあ、でも10年近く前だしね。時効でしょ。

ただ、そこでの先生の対応はカチンと来ました。
だから、変な声で泣かないようにしようね。って。
どんな声で泣こうがうちの子の勝手なのでは?
いじめられないように、身をすくめて生きろということですか?
私は、娘にこれが私の泣き方だ。文句あるのかと胸を張ってほしいのです。
だれでもない私の個性なのだと。
さすがに小1の娘にその説明を十分にはできませんでしたが。。。

それぞれ、一人一人違う差異の部分を受け入れられないとき、
差別とかイジメは発生するのだと思います。
人は成長とともに社会性?を身につけるから、直接的な方向でなく
陰湿になったり、遠ざかったり、無視したり、受け入れたり
するようになって来る。とは思う。

先生としてするべきであったのは、うちの個性を個性として
受け入れられるようにすることと、
イジメがイジメであるかどうかの規定は常に被害者の側にある
ということを理解させることではなかったのかなとおもう。
多分、専門家ではないのでわからないけれど、差異を個性として受け入れることが
ノーマライゼーションの基本なのではないかと思うのです。

なんかの記事に動物は仲間は殺さない。人間もそうであって、殺すのは
仲間として受け入れてないからだ、みたいなことが書いてあったのだけれど、
いじめとかハラスメントというのも仲間であるかどうかの考え方が重要ではないのか
と思うのです。
時々、「友達どうしのふざけあいだと思っていた」のと
「いじめられている」関係だと思う
認識のずれというのがあるのはこの点ではないか。

私がイジメがなかなかなくならない一つの原因として考えているのが、
上記の点と
差異をどう受け止めるかを十分に学ぶ時間が少ないこと。
私ら親自身が差異について何かしらかの不寛容な立場をとっていることあるものな。
たとえば、昔に比べると左利きは増えているそうですね。
昔は「ぎっちょ」とかいって、矯正されていた。私のいとこも両利きですもの。
他人との差異を気にする。のは子供ではなく大人だったりする。
子供のほうがよくそんなことでみたいな小さな点を他人との差異で発見するのだけれど。

それと小学生高学年くらいから中学生のイジメというのはある意味劣等感の裏返しに
なっているような気がする。
もしも完璧な人間がいたとする。スポーツでは金メダル勉強では常に全国で1番くらいの。
何をしても誰にも負けない。
だとしたら、その人はイジメはしないのじゃないかと思う。
負けてるところが一つもなければ、何らかの理由で自尊心・自我が傷つくことはない。
とすれば、他者への攻撃でそれを繕う必要はないと思う。
多くの場合、凄惨なイジメというのは、満たされない自分に対する代償行為で、
自分より弱い人間がいることとそれを確認することで満足しているのではないかな。
だから、弱いものへ弱いものへと攻撃が重ねられていく。
そしてそのことで、集団の中での自分の立場を強いものにしようとする。
自己防衛の一つなのではないか。
教育心理学の専門でもないし、経験も乏しいのだけれど。
そんな風に感じています。

ああ、もちろん日本の全人口の半分がサディストではないという前提に
立っていますよ。

自分の弱さを分かっていて、その劣等感との付き合い方を知っている子は、
あるいは劣等感を持つのが当たり前なのだと感じている子はイジメに加担しにくい
状況になるのではないかと。。。
上記の点がいじめっ子が状況の変化に伴いいじめられっ子にかわる。
また、その逆もあるということの原因の気がするのです。

人間だれしも弱い部分も劣等感もある。その向け方を間違うことは人間だから
ある。
つまり、イジメる―られるの関係が何かのきっかけでポンと
誰にでも起こりうることだから、簡単には、なくならないような気がするのです。

イジメがなくなるのは理想。でも、誰かにしてもらうのを待っていたならば、
長いようで短い人生。もったいないなと思うのです。
学生といわれるのは大学を含めてたいていが16年間。人生の20%分。
うつむいて過ごすのは、つまらない。だから、イジメに負けない強い子に
するのです。挫折を乗り越えられる強い子に育てたいのです。

「あたしの××のどこがいけないんだ。」
「キモイ。」
「それはあなたの感想。よく理解した。だったら、離れるか。受け入れるか。
選択の機会をあなたに与えてあげる。そもそも、どんだけあなたに迷惑かけてるか
説明してみろ。感情のまま生きてていいのは赤ん坊だけだぞ。」

こんな風にいえる子ならばあまりいじめられたりはしないんだよね。きっと。
難しいね。

失礼いたしました。

学級崩壊?えっ。うちのこなの?

子供が多いとそれぞれにいろいろなことあります。
ましてや、それぞれに9年ずつの義務教育があるわけで、
まともにいけば、子供たちトータルで約半世紀分の義務教育がある。
気づいたときは、我ながらすごくね。って思ったわけです。

若干、歴史を紐解きますと
長女・長男・次女とそれぞれに何がしらかの問題があり、
たとえば長女は小学校1年生の時に、イジメにあっておりました。
クラスも崩壊状態で、緊急保護者会なるものが開かれ、夜の9時くらいまで
お話合いが。。。何人かの生徒が先生のいうことを聞かないらしく、
先生の方でも手を焼かれていたそうです。

私自体は、イジメに合っている長女について、死ななければいいかな
同性からのいじめではないこともあり、
そのような体験も必要かなみたいに思っていてあまり問題にする気は
ありませんでした。
ただ、担当の先生の対応に納得がいかない部分があり、お手紙は書きました。

長男は小学校5年・6年のときに、やはり先生のいうことを聞かない子がおり、
学級崩壊で授業が全く進みませんでした。
先生も努力はされてらっしゃったのですが、うまく立て直すことが出来なかったのです。

まあ、これまではどちらかというと被害者的であったのですが、次女は
どうも様相が違いまして、クラスで「恐い」女子のグループに入っているのだそうです。
それで、授業中、「面白くなーい」とか「簡単すぎるー」とか(本人はやってないと
主張するのですが)授業進行の妨げになっているそうなのです。

まあ、気の強い、きつい子ではありましたが、
よもやそこまでと嫁はショックを受けておりました。
一族から不良が出てしまった。的な大騒ぎの状況だったのです。

ところが、学級懇談会ではその授業の進行がうまくいかないということよりも一部の
生徒(まあ、うちの不良娘のグループですが。。。)
が汚い言葉、あるいはきつい言葉を使うという問題がメインになってしまって、
授業進行がうまくいかない点は飛んでしまったようです。

親としてちょっと考えてしまいます。

確かに汚い言葉、たとえば「てめぇ、ぶっ殺すぞ」とか大人が言ったら、脅迫とも
受け取られません。それは人間として会話をする言葉ではないのだから、
仲間に対してでも使うべきではない。
叱られるべきはその点です。ちゃんとした言葉を使いましょう。
なぜならそれによって心に圧迫を受ける人やイジメととらえる人があります。
言葉は使う人のものではなく受け取る人のものだから、相手の存在を尊重しましょう。
ということだと思うのです。
そのような乱暴な言葉で傷つく人がいるならば、それはやっぱりやめるべき
なのです。
しかし、言い負かされてしまうから、誰も何も言えないという状況に関しては、
はたしてその生徒の責任だけなのでしょうか?

多分、うちの次女はあまり頭のまわる方ではなくどちらかといえば、天然なので
言い負かせるほどの弁はないと思うのですが。。。

たとえば、論争になったとき重要なのは理がどちらにあるかではないでしょうか?
間違ったことを言って、言い負かしているのであれば、それは全く持って非です。
正しいことを主張しているのであれば、それは正しいことだと思うのです。
当然相手の立場は尊重しなくてはいけませんが、、、
まあ、多くの場合は、理とか非ではなく、単なるわがままの言い合いなのだと
思うんですけどね。

大人がするべきは、言い負かしちゃいけませんではなく、客観的に判断してあげる
ことだと思うのです。言い争っているという事象面にだけに目を向けるのは、避けるべきです。
これから、生きてきくために、言葉をきちんと自分の武器にできることは大切なことだし、
一定程度、論争の経験を積ませてあげないといけないと思っているので、、、
だから、言葉を狩ってしまっても意味がないように思うのです。
互いにしこりの残らないようにまとめられたら理想形ですがね。。。

どう思うと嫁にいわれて、答えに窮してしまいました。、人の心に傷を残すような言葉は
使ってはいけない。でも、ほんとに論争なんだとしたらそれは、どちらに理があるかが
問題だし。。。でも、真の問題は授業がちゃんと進行しないことなのでは。。。
しか、頼りない父親としては言いようがなかったです。

それぞれの立場をその場にいて聞いていたわけではないから。判断できません。
言い訳くさくなりますが。

ただ、そのうちの次女が属するグループも教頭先生とかが来るとおとなしく話を
聞いているそうです。うーん。

体罰なのか。。。

先週来?先々週来?
アイドルが丸坊主にしたということが、やたら話題に
なっていましたね。

少し冷たい言い方ですが
私自身はだから。。。って思っていました。

多分アイドルの方たちはビジネスでやっているのだと思います。
その観点でみると、仕事のルールを破って、あるいは仕事に失敗して
丸坊主にしたところで、多分「だから?」って言われると思うし、私も
言われたし。

私が坊主になったところで、不合格が合格にかわるわけない。
それで、合格にしてくれるのならいくらでも坊主になりますわ。
ビジネスの世界ならば、反省よりも成果を求められるはず。
(反省が不必要だとはいいませんが)坊主にする時間あったら指導法の
改善しろよと私ならば思う。
あまり意味のある行動とは思えなかった。

世間では賛否両論らしく、体罰だ。いじめだ。パワハラだ。そもそも恋愛の禁止
自体、人権侵害だという意見もあるようです。

確かに体罰との共通性はあるかもしれない。パワハラかもしれない。
でも、それを超える価値を部活なり、その集団なりに見つけているのでは
ないかと思うのです。

それが洗脳によるものだとか言われると話はまったく別になると思うのですが、
それが、体罰だ。とかパワハラだ。とか決めるのはそれを受けている側だと
思うのです。
いじめについても同じことがいえる。
差別でもそうじゃないかな。
全然、パワハラとか思っていないのではないか。あるいはそう思っていたとしても
それ以上の価値を集団(会社)に見出している。あるいは人間関係に見出している。
と私は考えます。

そうなったら、どう考えても体罰だよとかパワハラだよとか他人がいっても
本人にとっては違うよね。
だから、体罰とかむずかしいのだと思う。これは前回からの繰り返しです。

そのような世界で、恋愛禁止を破ったら解雇というのは人権侵害だといわれても、
恋愛よりも価値を集団(企業)仕事に見つけ出していたら、
恋よりも仕事をとるわだし、はじめにそれは伝えてあるはずなのだから、
劣悪な労働条件だからということで、その集団を選択しなければ、いいだけの話
だと思うのですね。
あくまでも本人の選択だと思うのです。

むろん、一般企業では通じない話だと思う。非常識の極みでしょ。
そもそも、合コンしたら解雇だから、って言われてその企業に入る人は
いないとおもうのだけれど。。。

その選択についてまっとうな判断が出来るような人にしていくのが、
僕らの役割だと思うのです。

体罰とか。。。

2月1日の開校以来、
問い合わせが約10件。指導開始がすでに何名かいます。
うーん。いいペースなのか悪いペースなのかわかりませんねぇ
とりあえず、5日目としては。。。

今朝、テレビを見ていると体罰の特集をしていました。
いじめ、差別、体罰には似たような構造があると私は考えています。
けれど、前2つと指導の中での体罰は次元が違うとも思うのです。

前2つは受けてる当人の向上という観点がありません。
指導には受けている当人の向上という美名がある。
だから、肯定的な人がいたりとかある。

私自身は、体罰は言葉の暴力を含め、全否定派なので、
「××の塾では生徒を殴るんだよ」みたいなことを聞くと
いろいろな意味で「すげぇ」と思ってしまいます。

まず、殴って従わせないと話聞かないのか?
殴られた生徒の気持ち考えないのか?殴られた生徒の親の気持ちとかどうだ?
そんなことをドガエシして生徒に手を挙げる「熱意」は到底理解できない。

むかし、私は近所でも有名なT進学教室に通っていました。
厳しいことで有名で数学の苦手であった私は中2内容の授業で
「こんなのもわからねぇのか」
とか言われて大変追い詰められ体調を崩した覚えがあります。
わからないのだから塾に来ているのでは?
とひそかに思っていました。
だから、この20数年間「こんなのもわからないのか」だけは使ったことが
ありません。あと、「なぜ、できない」も。。。
使った覚えがないけど、ひょっとしたら言われた覚えのある人もいるかも。。。
その人たちごめん。
けど、
わからないから、できないから、塾に来るので、それを生徒の責任にしてしまうのは
塾としての怠慢のような気がする。

くさい言い方をすれば、わかった!!と生徒さんが言えた時の笑顔が見たくて
この仕事してるのかなとも思う。ある意味20数年前から成長してませんね。(笑)

また同時に言えるのは、指導者や先生というのは生徒にとって絶対権力者に
近い存在なのだから、
絶対権力者が殴ったらそれは暴君決定でしょ。
親に対してだって、人質とってるんだから。
あがめられ、奉られるとどんどんそれが見えなくなってしまう。
また、どこか心の距離も離れてしまうような気がする。
だから、若い衆を使うのですが。。。

話を戻すと、体罰ってやっぱり関係性に集約される気がするのです。
だから、「殴られてよかったよ、おれ」があるし、「殴られていやだったよ」もあるのでは
ないかと。擁護する人も批判する人も。

ただ、殴ってました。その行為だけを見ると学校教育法11条に定める体罰ですね。
となる。

でも、そこに関係性についての観点はない気がするのです。
むしろ、体罰以前に、指導にあたる生徒さんとちゃんと関係性を作れていないことのほうが
やはり問題な気がする。
若い先生は関係の作り方がわからずに、
古い先生は心の距離を見間違って、知らず知らずのうちにえらいとおもってしまって。。。
体罰してしまうのかもしれない。

どっちにしろその生徒さん一人一人をじっくり観察できたなら、よく理解できたなら
手を上げずにすむ方法はあったのではないかなと思うし、
そんな暴力に負けないくらいに心が強い生徒たちにしていきたいと思っている。

中3向け。。。

皆さん、恵方巻は食べましたか?
私は食べていません。唇の端が季節のせいか切れていて、
恵方巻なんか食べようものならば、軽く4,5センチは口が裂けると思います。
最近は弁当を食べる箸が、血まみれになるくらいなので
自重をいたしました。

2月に入り、北海道では中間倍率やら出願のやり直し=倍率
の変化などでかまびすしい日々ですね。

いよいよ不安感が増大してくる時期でもあります。
受験を前にして平常心で居られる人など多くはありません。
あきらめているか、絶対的な自信があるかのどちらかです。

そうなっている人の数は少ない。受験者全体の20%もいないと
思います。つまり、残りの90%は不安があるはずなのです。
倍率を1.3倍と考えれば、320人以上の人が受かるかな、落ちるかな
という不安を抱えているはずです。
つまり、大部分の受験生が皆さん一人一人と同じように不安を抱えています。
よくこの時期、不安で不安で何も手につかない。とか、
落ちたらどうしよう。先生。とか

でも、よく考えてください。何も手につかない=勉強できない=落ちる
ですよね。自分の不安はとにかくがむしゃらに勉強に取り組むことしか
ないはずで、それはほかでもない皆さん自身が自分でしなくてはいけないこと
なののです。
何も手につかないということは、不安感という弱い自分にまけているだけです。
何をしていいのかわからないなら、それを学校の先生、塾の先生に聞けばいい。
聞けないなら、メールでいくらでも私が相談に乗ります。

それと「落ちたらどうしよう」も勝負が始まってもいないうちから、
言っても始まらない。

いつも言っています。
「無理だ」や「無理そうだ」「不可能だ」という言葉は勉強においてはあり得ない。
全力を尽くしてそのうえで、「無理だった」「できなかった」が
あるだけなのです。
負ける未来など想像しなくていいし、それが現実になったときはじめて
考えればいいこと。今できることの全力を尽くしましょう。
後先など考えなくてもいい。結果はおのずとついてくる。
今全力を尽くさないと望んだ未来など手に入らないのですから。

そして、「あきらめ」も間違いです。
状況は限定されるけど、1か月ほんとに真剣に取り組めれば、
入試の得点は向上します。
時間がないと思うのは個人の主観で、
どのように使うかでしょう。考えてください。
この残り1か月で、学校以外に200時間以上の学習は可能です。
それを考えたうえで、あきらめるべきか否かは考えた方が
よいのではないかと思います。

無理なことなど一つもないのです。絶対があり得ないと同様に。