今更記述問題(中3向け)

いまさらながら、
中3生に国語の記述問題を指導しています。
記述問題が苦手な生徒でも北海道の問題ならば、何とかなる可能性がある。

どちらかというと、私は国語や数学にあまりロマンとか
抱かない方で、高校の時の先生が「うん。このとき方は美しいね。」
とか言っていたことに対して、全く共感を覚えないたちなのでした。
ただ、パズル的な面白さのある問題は、この図形変だよね。みたいなことは
言ってみたりする。
なんとなくかっこいい気がして。。。嘘です。
基本的に将来の夢がその教科ではない限り、私は道具として
考えてしまう方なのです。
たとえば、英語にしてもそのものを研究するというよりも
この仕事をするために、道具として使いこなせないといけない。
という人が多いのではないかと考えていますので、
みんなにも「数学なんて道具なんだから、使い方覚えればいいんだよ。
だから、暗記科目なんだ。」みたいな暴言を吐いたりするわけです。

で、話はそれましたが、
記述問題が書けない場合。いくつかのパターンがあると思うのです。
まず、文章自体が読めていないこと。
続いて出題者の意図や出題の意味が汲み取れない。
そして、問題のとき方というか、答えの書き方のパターンがわかっていない。
他にも、長い文章(60字~80字=長くもないけど)が書けない。
などなど、要因は人それぞれだと思いますし、
どこが課題かによってトレーニング方法も違います。
時間があれば、出口汪さんなんかがいいのだろうけれど、
あと1週間では、少し時間が足りない気がする。

最近、見てて思うのは設問が何を問うているのか正確に
把握できないていないなという点です。
これならば、トレーニング次第で何とかなる。
この期に及んでなのだが、理由を聞かれているのか、説明するのか
把握できていないケースがあるので、書き始める前に
何を求められているか考えてみてください。
そのくらいの余裕はあるはず。
最初の科目ということもあるので、タイムコントロールは重要だけど、
多くの問題な場合、答えを探すのに時間がかかるように
出来ていない。むしろつなぎ合わせる作業に時間がかかっている子が
多い様子です。

立命館の問題なんかは傍線部から離れた場所に答えの糸口が
おかれているケースが多いけど、公立の場合は直近のケースが多いから
むろん例外はあるのだけれど。
それを解答に合わせて最適化していく作業は、練習さえすれば何とかなる。
書けないからであきらめない。
逆にかけるだけでは頼りないよ。

北海道は公立の高校入試(一般)に作文がないから、授業自体として
作文も少ない。書くということ自体を苦手にしている子は多いはずだから、
短期間でもどれほど練習積むかが重要だと思う。
苦手にしていてもスラスラ本番ではかけたという子も多いから、
とにかく練習を積むこと。
たとえ、1週間でも状況は変わるよ。
がんばれ。

頑張ったのはだれ?

よく広告に絶対成績を上げます。とか
塾で指導した成果でこれだけの実績が出ています。とか

あるのですが、どうも私的には納得のいかない部分が多いのです。
多分、今教えている子の何人かは地域のトップ校に合格するのですが、
でも、それは私ががんばったわけではない。

ああ、手を抜いているというわけではないですよ。
確かに指導もしたし、サポートもした。でも、本気になって、
戦ったのは生徒たちなのだし、賞賛されるべきは、生徒たちであって
塾じゃないのじゃないかなと思うのです。
成績を上げる主体は生徒たちです。
絶対あげるってどれほど先生たちが優秀なのだろうと思うのです。
まあ、気持ち的にってことで。というならば、それはこの仕事に
携わる人すべてが持っているはず。

昔は私も俺が教えたから上がったのだとか傲慢にも考えていたし、
一部は正解だと思う。
しかし、この仕事の中で
主役は常に生徒たちであるわけで、塾の先生はわき役にすぎません。
本人たちにやってもらえなければ、受験さえままならない。
だから、本人たちを頑張らせる方向付けが
一番重要なのではないかと考えます。

そのためには、内容をテストや入試に合わせて絞り込んで、
覚えやすいテクニックを編み出して、とか。

でも、それは生徒にとっても私にとっても最終目標でもなんでもなく、
本人たちが自分で走れるようにするための方向付けの方法でしかない
と思う。
という意味では一番の売りにしたいのはその部分だし、
高校大学に行ってさらに成長することが
なりたい自分になることが目標なのだから。

塾が優れているから、あるいは私が優れているから君たちは
合格するんじゃない。
君たち自身が努力したから、優秀だから合格するんだ。

でも、不合格になったらそれは塾の力が不十分。いろいろな意味で。
不十分だったのだとおもう。
塾の主宰である私がこんなこと言っちゃいけないかもしれないが。

まあ、完全に君らに責任がないわけではないのだけれど、
不合格という点で、これからのどう生きるかに
変更を余儀なくされる点で人生に責任を負うのだから。
それ以上、責められることはないと思うのです。

この間の一コマ。

先日、授業を中3に向けてしているときですが、
私:「○○君。これ授業でいうたよな。」
生徒:「言ってない。言ってない。言ってない。」×3
私:「いや。ゆうた。ゆうた。ゆうた。」×3

というやり取りが、整数関係の問題で、解法について何回か
ありました。

私は良く「生徒に45億回くらい言ってるっすよ」
とまあオーバーな表現で言います。

一つにはそのくらい、重要で何度も言ってるところだから覚えてください。
というメッセージ。
それからともう一つは、NGワード。

「何べん言ったらわかるんだ」

これは自分の中ではNGワードなのです。

何もかも1回で覚えられる人というのはかなり人類の中でも
珍しい存在ではないかと思います。
基本的に何回も繰り返していかないと覚えられないとおもうのです。

そして、言葉というのは常に受け手側に主体があります。
言っただけでは、伝わったとは言えません。

だから、覚えさせられていない私が悪いのです。
覚えるまで何べんでもいうべきだし、
それを「覚えられないお前が悪いのだ」という言い方はあり得ない。
まあ、近いことはいう。覚えなければ、不合格という対価を支払うことになるよ。

また、わりと一般的に流通している言葉ですしね。
この間も息子は嫁に言われてました。
+お前アホか。+もうちょっと頭使えや。まで。
いや、ほんとにアホなので仕方ありません。
行動が軽率なのですね。
その点で父はフォローのしようがない。父のDNAを恨んでいいよ。

それはおいておいて、
A君は○○といいました。でも、B君は覚えてませんでした。
これは、ちゃんと伝えられないA君の責任だと私は考えます。
異論はあると思うのですが、塾の先生という立場で考えると
生徒に覚えさせられない。あるいは伝えられない講師の責任というのは
大きいと思います。

20人以上を相手にする予備校などの場合は別の考えがあるかもですよ。
前提として自分で考えて理解することがあるから。それを理解して入るわけですし、
だから、予備校でうまくいく生徒はそれがわかっているし、
また、生徒がこれでは理解できないと思えば、不人気な講座となるわけですね。

もし、私が生徒の立場で考えたら、覚えない自分にも責任はあるが、
ちゃんと覚えさせられない先生だって悪いじゃん。と思ってしまうのです。
で、覚えないことで自分は不合格という対価を払うけど、
先生は基本的に何も傷つかないじゃん。
ひねくれた中学生だったかもしれない。。。

覚えさせられないという部分を棚上げにして生徒のムナグラつかんで
俺の言うことを守れない奴は出ていけとオイコラな感じできると
きっと楽なんでしょうけど。。。
そんな昭和なにおいを感じさせる塾ももうないでしょう。

ただ、生徒に成果が出ればそれは塾の力。
生徒が成績不振なのは努力しないせい。
という考えはいまだにあるような気がする。
気がするだけかもしれないけど。

私はやはり逆だと思います。
成果が出ればそれは生徒ががんばったからで、
成績不振は努力させられない塾のせいだろうと思います。

地域一番は目指してないのです。

ついこないだまで会社勤めだったので、
よく言われたのが、地域一番店になろう。といことで、
それは明らかに正しかったと思います。

直営系生徒数全国№1の塾としては目指す方向として、
全く間違っていないのです。
出来ればシェアを100%握り、ブルーオーシャンを築く。
あるべき姿なのですが。

独立した今、私は地域一番店はほかの塾さんにお譲りしよう。
と考えています。
地域一番とは何が地域一番なのでしょうか?
人数?合格実績?人数のもととなるはずのサービス?
まあ、4月から人数が増えるにせよ、
私一人で切り盛りする塾なので。。。
多分人数としてはどれだけ学年バランスが良くても80は超えない。
実績は大量に集めて大量授業をする。塾にお任せします。
1クラス16人まで、それ以上来たら断るうちの塾には無理なのです。

しかし、来ていただいた方の満足感は100%にしたいというか
不満足な部分はなくしていきたい。

だから、地域ナンバーワンのサービスは目指さないけれど
来ていただいた方の100%満足は目指していきます。
多分、私に求められるものは多種多様で満足のツボもいろいろあると。
そのツボを押さえていくように心がけたいなと思います。

あとは私が出会った方とのつながりを大事にしていきたい。
私は心が狭く、また、誰に対しても親切な人間ではありません。
そんな自分であるからこそ、一度かかわりができた方を最優先で考えたいな
と思っています。
こんな仕事ですから、出会いは当然あるけど、それはおそらく私の
200代前の先祖の数よりは少ないと思います。

だから、一度お知り合いになれたことを大切にしたいのです。
教える内容に差がついたり、取扱いに差が出るわけではないけれど
以前在籍した塾の塾生、卒業生、私の友人の子供たちはには
また出会えてありがとうという意味で授業料はサービスするのです。
多分、正規の方から比較すると2割引きから5割引きくらいになっているかな。

現在の中3はほとんど受講料はいただいていません。
2月、3月の間は。
深くかかわりを持っていただける方ほど満足感が高まる形にしたいな
と思います。

長女のイジメから学んだこと。②

いろいろ反響がありまして、
もう少し追加で書こうかなと思う次第です。

基本的にイジメる奴が悪い。
この立場は私の基本的スタンスなのですが、

もう少し、イジメるという行為、そのものの行動の原因や
背景に焦点をあてて考えるべきではないかと思っています。

つまり、いじめをする子はなぜするのか。
生まれついてジャイアンである子は少ないのではないか。
むしろ、ジャイアンにはジャイアンになるための過程があったのではないか
と考えています。
むしろその部分を変えてもらわないと
今、イジメられている子も、今、イジメている子も不幸なままで終わるのではないか
と思います。

たとえば、いじめをした生徒は出席停止にする。とかのアイディアも出ているそうです。
正解かもしれない。対症療法としては、今暴力やハラスメントで
被害を受けている子は救われる。
しかし、出席停止の後は?構造が変化しなければ、同じことの繰り返しになる。
逆にそのことでイジメている子の学ぶ権利のことや逆にいじめに合う可能性は?

まあ、イジメられている子にしてみれば、イジメする奴に2つとも
認める必要はないと思うかもしれないけれど。

イジメは命を奪う行動だから、一定程度必要かもしれない。
ストーカーと同じで。

キーは事象としての出席停止でも命を大切にする指導でもないような気がするのです。
命が大切なのはみんな知っている。それは、「仲間」の命の大切さ。
問題は自分とは違う「差異」を抱えた人間を「仲間」として受け入れられるか
どうかにあると思うのです。
構造がそんなに単純ではないのかもしれないけれど。

△△はこの点が違う。おかしい。
○○が、こういった。生意気だ。
××が、自分の指示に従わない。むかつく。

人がそれぞれ別人格で自分の思った通りにならないものだ。
それをすり合わせるために言葉がある。
違う人の持つ差異を個性として受け入れる。
この点に対する指導が十分でなければ、
状況はいろいろ変わっても続いてしまうと思うし、イジメ→イジメられる
が登場人物を変えて続いてしまうような気がする。

ただ、この「差異」を「個性」として、あるがままのもの。
あってもいいものとして受け入れるというのは、とても難しい。
そして、教育が出来るのはそのサポートだけでしかない。
なぜなら、差異を受け入れるというのは、自分で自分の
意識の地平を広げない限りできない。

たとえば、お前らイジメ的な言動をするな。といって、
ああこんなことはこの人に対していっちゃダメなのね。
しちゃダメなのね。という

禁止事項として受け入れただけで、
その差異を本当に理解して、受け入れていることにならないだろうと
私は思うのです。

残念ながら、長女がイジメられたという経験を通じて、それは
差異を理解して受け入れましょうと流れは感じなかったのですね。

今、長女は学校で目立つことほぼしません。
それが、彼女がいじめから学んだ処世術なのかもしれない。とも思うし。
トラウマなのかもしれませんね。
親としては、イイも悪いもありません。
もっと、前出ろよとか積極的にいけよ。というのは親の望みでしかない。

根が楽天的なので、
決して、イジメの経験はマイナスばかりではないと思っています。
全く、意味のない暴力や理不尽なことが社会にはあることを
身を持って経験し、
その時には自分自身が自分を守らなければならないことを学んだと思います。
小1にはハードではあったでしょうが、
誰もが学んでおかなくてはいけないことのような気がします。
いろいろ経験してみることは絶対必要ですから。

もし、目立たないことが彼女の選択ならば、親として全力で出来うる限り、
それで不都合がないように
サポートするだけです。
もし目立たない自分が嫌だと思ったら、それを変えることに対しても
全力でサポートしますしね。

長女のイジメから学んだこと。

昨日、かなり生意気なことを
書いてしまいましたので、ちょっと自分なりのいじめやらの考えを書きたいと
思います。

まず初めに、イジメはいじめられる子に確実に原因があります。
でも、その原因というのは悪いことというわけではなくて、いわば、差異
とか個性とか言われるものです。

うちの子の場合は泣き方が、泣き声?が面白かったそうです。
だから、泣かしてたらしい。
嫁は怒っていましたが、僕は思わず笑ってしましました。
当然、嫁の手前、心の中だけでですけど。
似たようなことを今もしとんねんな餓鬼どもはー。って
まあ、でも10年近く前だしね。時効でしょ。

ただ、そこでの先生の対応はカチンと来ました。
だから、変な声で泣かないようにしようね。って。
どんな声で泣こうがうちの子の勝手なのでは?
いじめられないように、身をすくめて生きろということですか?
私は、娘にこれが私の泣き方だ。文句あるのかと胸を張ってほしいのです。
だれでもない私の個性なのだと。
さすがに小1の娘にその説明を十分にはできませんでしたが。。。

それぞれ、一人一人違う差異の部分を受け入れられないとき、
差別とかイジメは発生するのだと思います。
人は成長とともに社会性?を身につけるから、直接的な方向でなく
陰湿になったり、遠ざかったり、無視したり、受け入れたり
するようになって来る。とは思う。

先生としてするべきであったのは、うちの個性を個性として
受け入れられるようにすることと、
イジメがイジメであるかどうかの規定は常に被害者の側にある
ということを理解させることではなかったのかなとおもう。
多分、専門家ではないのでわからないけれど、差異を個性として受け入れることが
ノーマライゼーションの基本なのではないかと思うのです。

なんかの記事に動物は仲間は殺さない。人間もそうであって、殺すのは
仲間として受け入れてないからだ、みたいなことが書いてあったのだけれど、
いじめとかハラスメントというのも仲間であるかどうかの考え方が重要ではないのか
と思うのです。
時々、「友達どうしのふざけあいだと思っていた」のと
「いじめられている」関係だと思う
認識のずれというのがあるのはこの点ではないか。

私がイジメがなかなかなくならない一つの原因として考えているのが、
上記の点と
差異をどう受け止めるかを十分に学ぶ時間が少ないこと。
私ら親自身が差異について何かしらかの不寛容な立場をとっていることあるものな。
たとえば、昔に比べると左利きは増えているそうですね。
昔は「ぎっちょ」とかいって、矯正されていた。私のいとこも両利きですもの。
他人との差異を気にする。のは子供ではなく大人だったりする。
子供のほうがよくそんなことでみたいな小さな点を他人との差異で発見するのだけれど。

それと小学生高学年くらいから中学生のイジメというのはある意味劣等感の裏返しに
なっているような気がする。
もしも完璧な人間がいたとする。スポーツでは金メダル勉強では常に全国で1番くらいの。
何をしても誰にも負けない。
だとしたら、その人はイジメはしないのじゃないかと思う。
負けてるところが一つもなければ、何らかの理由で自尊心・自我が傷つくことはない。
とすれば、他者への攻撃でそれを繕う必要はないと思う。
多くの場合、凄惨なイジメというのは、満たされない自分に対する代償行為で、
自分より弱い人間がいることとそれを確認することで満足しているのではないかな。
だから、弱いものへ弱いものへと攻撃が重ねられていく。
そしてそのことで、集団の中での自分の立場を強いものにしようとする。
自己防衛の一つなのではないか。
教育心理学の専門でもないし、経験も乏しいのだけれど。
そんな風に感じています。

ああ、もちろん日本の全人口の半分がサディストではないという前提に
立っていますよ。

自分の弱さを分かっていて、その劣等感との付き合い方を知っている子は、
あるいは劣等感を持つのが当たり前なのだと感じている子はイジメに加担しにくい
状況になるのではないかと。。。
上記の点がいじめっ子が状況の変化に伴いいじめられっ子にかわる。
また、その逆もあるということの原因の気がするのです。

人間だれしも弱い部分も劣等感もある。その向け方を間違うことは人間だから
ある。
つまり、イジメる―られるの関係が何かのきっかけでポンと
誰にでも起こりうることだから、簡単には、なくならないような気がするのです。

イジメがなくなるのは理想。でも、誰かにしてもらうのを待っていたならば、
長いようで短い人生。もったいないなと思うのです。
学生といわれるのは大学を含めてたいていが16年間。人生の20%分。
うつむいて過ごすのは、つまらない。だから、イジメに負けない強い子に
するのです。挫折を乗り越えられる強い子に育てたいのです。

「あたしの××のどこがいけないんだ。」
「キモイ。」
「それはあなたの感想。よく理解した。だったら、離れるか。受け入れるか。
選択の機会をあなたに与えてあげる。そもそも、どんだけあなたに迷惑かけてるか
説明してみろ。感情のまま生きてていいのは赤ん坊だけだぞ。」

こんな風にいえる子ならばあまりいじめられたりはしないんだよね。きっと。
難しいね。

失礼いたしました。

学級崩壊?えっ。うちのこなの?

子供が多いとそれぞれにいろいろなことあります。
ましてや、それぞれに9年ずつの義務教育があるわけで、
まともにいけば、子供たちトータルで約半世紀分の義務教育がある。
気づいたときは、我ながらすごくね。って思ったわけです。

若干、歴史を紐解きますと
長女・長男・次女とそれぞれに何がしらかの問題があり、
たとえば長女は小学校1年生の時に、イジメにあっておりました。
クラスも崩壊状態で、緊急保護者会なるものが開かれ、夜の9時くらいまで
お話合いが。。。何人かの生徒が先生のいうことを聞かないらしく、
先生の方でも手を焼かれていたそうです。

私自体は、イジメに合っている長女について、死ななければいいかな
同性からのいじめではないこともあり、
そのような体験も必要かなみたいに思っていてあまり問題にする気は
ありませんでした。
ただ、担当の先生の対応に納得がいかない部分があり、お手紙は書きました。

長男は小学校5年・6年のときに、やはり先生のいうことを聞かない子がおり、
学級崩壊で授業が全く進みませんでした。
先生も努力はされてらっしゃったのですが、うまく立て直すことが出来なかったのです。

まあ、これまではどちらかというと被害者的であったのですが、次女は
どうも様相が違いまして、クラスで「恐い」女子のグループに入っているのだそうです。
それで、授業中、「面白くなーい」とか「簡単すぎるー」とか(本人はやってないと
主張するのですが)授業進行の妨げになっているそうなのです。

まあ、気の強い、きつい子ではありましたが、
よもやそこまでと嫁はショックを受けておりました。
一族から不良が出てしまった。的な大騒ぎの状況だったのです。

ところが、学級懇談会ではその授業の進行がうまくいかないということよりも一部の
生徒(まあ、うちの不良娘のグループですが。。。)
が汚い言葉、あるいはきつい言葉を使うという問題がメインになってしまって、
授業進行がうまくいかない点は飛んでしまったようです。

親としてちょっと考えてしまいます。

確かに汚い言葉、たとえば「てめぇ、ぶっ殺すぞ」とか大人が言ったら、脅迫とも
受け取られません。それは人間として会話をする言葉ではないのだから、
仲間に対してでも使うべきではない。
叱られるべきはその点です。ちゃんとした言葉を使いましょう。
なぜならそれによって心に圧迫を受ける人やイジメととらえる人があります。
言葉は使う人のものではなく受け取る人のものだから、相手の存在を尊重しましょう。
ということだと思うのです。
そのような乱暴な言葉で傷つく人がいるならば、それはやっぱりやめるべき
なのです。
しかし、言い負かされてしまうから、誰も何も言えないという状況に関しては、
はたしてその生徒の責任だけなのでしょうか?

多分、うちの次女はあまり頭のまわる方ではなくどちらかといえば、天然なので
言い負かせるほどの弁はないと思うのですが。。。

たとえば、論争になったとき重要なのは理がどちらにあるかではないでしょうか?
間違ったことを言って、言い負かしているのであれば、それは全く持って非です。
正しいことを主張しているのであれば、それは正しいことだと思うのです。
当然相手の立場は尊重しなくてはいけませんが、、、
まあ、多くの場合は、理とか非ではなく、単なるわがままの言い合いなのだと
思うんですけどね。

大人がするべきは、言い負かしちゃいけませんではなく、客観的に判断してあげる
ことだと思うのです。言い争っているという事象面にだけに目を向けるのは、避けるべきです。
これから、生きてきくために、言葉をきちんと自分の武器にできることは大切なことだし、
一定程度、論争の経験を積ませてあげないといけないと思っているので、、、
だから、言葉を狩ってしまっても意味がないように思うのです。
互いにしこりの残らないようにまとめられたら理想形ですがね。。。

どう思うと嫁にいわれて、答えに窮してしまいました。、人の心に傷を残すような言葉は
使ってはいけない。でも、ほんとに論争なんだとしたらそれは、どちらに理があるかが
問題だし。。。でも、真の問題は授業がちゃんと進行しないことなのでは。。。
しか、頼りない父親としては言いようがなかったです。

それぞれの立場をその場にいて聞いていたわけではないから。判断できません。
言い訳くさくなりますが。

ただ、そのうちの次女が属するグループも教頭先生とかが来るとおとなしく話を
聞いているそうです。うーん。

合格と。。。

推薦で公立高校、合格していましたというお知らせが
中3から1件。
札幌市内でも上々の公立です。

嬉しそうにしている声を聞くとまあ良かった。と一安心です。

しかし、これはスタートラインに立っただけだから。
人生は年を追うごとにハードルが高くなり、選択も多彩になおかつ
難しくなっていく。

今の勝者が明日の勝者とは限らない。
土台、人生を勝ち負けで語るのは無理があるだろうと思います。
幸せの基準は人それぞれだから。。。

とにかくできることは、若いうちに自分なりの得意分野を
探しておくことです。

合格おめでとう。
だけど、残り2か月で高校生活の基本の立ち位置が決まっちゃうよ。
早く行き先が決まったならば、それに対する準備を2月、3月にしておくべきです。
この点においては間違いないと思います。

北海道の高校入試②(中3向け)

私立のB日程が始まろうとしているので。。。

ざっと思いつく注意事項をいくつか。。。

① たいていが下見に行くのですが、時間帯の違いに留意してください。
  たとえば、平日の昼間は道路がすいています。朝になると雪が降った日に
  ついては、バスも大きく遅れることがあるので注意です。
  公の交通機関を利用するというのは一種の保険で、マイカーでの遅れは
  単なる遅刻扱いですが、遅延の証明書を出してくれるバス、電車は遅れても
  遅刻とは違う扱いを受けられるケース(高校ごとに違いますが)が多いのです。
  そういう意味ではタクシーもギャンブル性が高い。
  使わなくてもいい時間という前提で逆算してください。

② 消しゴムは2個用意しましょう。できれば、大きめのものを。
  シャープペンシルは故障の危険性があるので使う人は2本以上。
  別に絶対ということではなく、これも気持ちの問題です。
  筆記用具について余裕があることでほんのちょっとだけプレッシャーを
  軽減させることが出来ます。

③ 答え合わせは絶対しない。親しい友達との間でも答え合わせはしない。
  なぜテスト後に答え合わせをしたがるかというと皆と同じであることで
  安心感を得たいのです。つまり自信がないから聞きたい。
  ところが、間違っていても答案を取り返して書き直すことなどできはしません。
  全く意味がないのです。
  だとすれば、自分の解答に絶対的な自信を持ってください。
  全世界の人の答えがアだとしても、自分の書いた答えがイならば、
  正解はイなんです。
  「自分の書く答えは一問たりとも間違ってはいない。」
  と思い込んでください。一問も間違ってないのだから、答え合わせの必要も
  ないのです。

④ すべてを忘れる。
  1教科ごとそれが終わったら、どんなテストかを含めてすべて忘れてください。
  失敗した、成功した含めててです。
  全く別な新しいテストが始まります。
  今日の晩御飯を食べているとき、「昨日の晩御飯残しちゃったなー」とか
  「うまかったなー」とかを思い浮かべる人は少ないと思います。
  今そこには今日の晩御飯があるだけだから。それを食べることに集中してください。
  後ろを振り返る時間はないので。。。
  合格発表まですべて忘れておいてください。

 不安はあるけれど、振り回されてはいけません。
 倍率はどこも高いですが、名目と実質の差があるので、気にする必要がありません。
 北海道の私立入試で怖いのはまわりの相手ではなく、
 自滅することです。
 マークミスであったり、ケアレスミスであったり、焦って、あと3分しかないないのに
 60字の記述問題の答えを消しても一度書き直すとか。。。
 自信を持って取り組んでください。
 受かるかな、落ちるかな的なことを考える時間は終了しています。
 絶対受かるんだ。と思い込んで取り組んでください。

北海道公立入試の数学。。。

お堅いタイトルでごめんなさい。

ここのところ毎日、中学生がきて勉強を指導している。
1日平均3~4名くらいかな。
以前在籍した塾からおいかけてきてくれた子もあるし、
さまざまな事情で。
引き抜きはかけていない。そのくらいの仁義は通しています。
この後、仁義なき戦い?それもあまりないかな。

とりあえず、5時から9時まで完全に個別指導。
入試まであとわずかなので、あるいは、終わってしまったので、
それぞれの課題に合わせて個別でみている。

その流れの中で、やっぱり絶対数は少なくても小・中学生の
個別指導は必要かなと考え始めています。
とりあえず、2月3月無料で面倒をみるという流れの中で
結論は出そうと思っている。
ただ、この後、手が上がったら断れないだろう(笑)
その場合は集団の絡みで私以外の教員に委ねることになる。
まあ、高校生は確実にスタートさせるので、中学生も受け入れられる
(条件付きながら)

ここにきて問い合わせに偏りが出てきていて、多分4月スタート段階で
即募集停止という学年が現れる可能性があります。
他の学年スカスカなのに。。。ということにならないようにしていきます。

以前から、今回の高校入試における問題点として指摘してきているように、
やはり、学習指導要領の改訂がらみのところは弱点になってしまっている。
特に数学と理科においては。
昨年度の標本調査の出題で明らかになっている通り、現状の中学生が
使っている教科書の内容はすべて出題されると考えておいた方がよいと思う。
一年目の単元だからと言って、手抜きはしていない。
ということは、数学においては
① 図形の移動(1年)と作図。
② 面積比と体積比
③ 円・球と三平方 などは、おそらく学習量の差によって大きく得点差のつく
単元になる可能性が高い。
むろん、集中的に対策は来てくれている生徒に対しては実施中。
しかし、円についての得点力は2年前に比べると確実に低下している。
円の3年生単元への移行に伴い、厚みが少し減ってしまっている。

つまり、2年前であれば中3の夏休みで結構復習できたのに、
今は冬休みでぎりぎり復習。なおかつ、入試の勘所をわきまえた講師が
指導していないと得点力は上がらない。
そばで聞いていて残念な授業だと、あきらめてほかの単元に時間をかけた
方がいいくらい。目の付け所が重要な単元だから。比と円は。
それに、一部の中学校は2年で円を前倒し実施しているので、
中学校ごとの得点差も深刻になるかもしれない。

今年の中3に限って言えば、中3の教科書を丁寧に進めるだけでは
明らかに入試段階で問題が発生するはずなのだ。
だから、2学期で成績の上下動が大きかったのではないかと考えている。
平均では現れない個人的な上下動が。
それを残り20日余りでどう埋めてあげるかが、今の私に課せられたミッションの
一つであると考えている。だから、来れる限り毎日。

ここまで来たら銭金の問題とちゃうで、お母さん。
金なんか要らんで、僕に何とかさせてほしいんや。

今も昔もよく言っている気がする。だから、会社ではきっと出世できないのだ。
なんとなく今気が付いた。
でも、ハートのない奴が塾やったって不満ばっかりでうまくいくはずない。
まあ、ハートだけのやつがやってもうまくいかないのがこの仕事の難しさでもある。。

どうでもいいことだ。

他にも数学は細かい部分はいろいろあるが、点数の差になりそうなのは、上記の点。
理科・社会は1年内容だな圧倒的に。